裏山で粘土を掘り出し、もっこで担ぎだし、水簸してから土の水分を抜く。この施設を『オロ』といいます。写真手前の堤防のような部分が『オロ』でドロドロの泥漿を流し込み、水分を抜き、手前に伏せてある素焼きの鉢に入れ乾燥させ、粘土をつくります。
創業当時、経営者の初代豊山を「大将」とし、その下に職人を束ねる「棟梁」を置いた。棟梁の下には粘土・轆轤・細工・釉薬などを担当する職人いて、最盛期にはその数は40人を超えた。職人には住み込みもいれば、農閑期に手伝う通いの職人もいた。地域にとっても吉備焼の開窯は、雇用に貢献した。
創業当時、瀬戸内海に面していて陸の孤島の様な場所であったが、大量に生産した製品は、海運を利用して岡山・大阪・四国また海外まで卸して回った。
創業から昭和初期は、壺・花器・花入れ・甕・すり鉢・火鉢・アミノ酸甕など、大量に生産し、大阪・岡山などから問屋さんを窯元に招待・接待して製品の受注をいただいた。
右の写真はその当時のカタログ写真。
窯出しされた花器類。後ろは火鉢。周りに登り窯で炊く割木がつまれている。創業から戦後まで、岡山県内でも最大級の登り窯で大量に製品がやかれていた。